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思索雑記

思った事とか価値観、よく分からないこともなんでも書く雑記。

自己というものについて考えてみた

今の時代、色々な人や社会と関わらずに生きていくことは不可能だ。こんなにも多くの人と関わり、多様な環境の中で生きているということを自覚すると、自己というものは一つではなく、環境ごとにそれぞれ存在するのではないだろうかと思うようになった。

 

どんな人も、家族といるとき、恋人といるとき、職場にいる時は、それぞれ少なからず違った自分を生きているはずだと思う。関西だと、普段よくボケ側にいる人でも、自分以上にボケるような人といる時はツッコミ側に回るというようなことがあるようにだ。

 

コミュニケーションというのはこのように相手と自分がうまく調和する部分で行われるもので、そのコミュニケーションの産物として、その相手専用の自分というものが生まれていく。

これは職場や学校というような環境をとっても同じことが言えて、職場ではいじられキャラだけど、学校ではいじる側にいるというようなことが起こるのは全くオカシイことではなく、ただ、その集合体と自分自身の調和点の産物として、その環境特有の自分が生まれているというだけのことだ。

 

私は、「自己」は他人や場所などの外的要因を経由して出来上がるものだと考えているため、どの環境での自分が本当の自分なのかなんてことはどうでもよく、その環境での自分を好きでいられるかどうかが重要なのだと思っている。

 

事実なんてものは知ったこっちゃないが、仮にそうあるとするならば、できるだけ生きるのが楽しいと思える環境を生きられるようにしたい。

その場所にいるとき、その人と一緒にいるとき、その時々の自分自身を好きでいられる環境に生きたい。

 

最近になっても稀に中高生のいじめによる自殺事件をニュースで見かける。

自殺を選択してしまった学生は、きっと学校という環境に生まれた自分を生きるのが苦痛だったのだろうけど、特定の環境を生きる一部の自分が嫌になってしまったがために、"自分自身"を殺してしまうことは本当に悲しいことだ。

 

ある環境によって、生きることが辛くなってしまうような自分が生まれたときには、生きるのが楽しい場所や、人、モノを見つけ、逃げられるようにしたい。

今の時代、どんな人にもきっと自分を好きでいられるような環境が存在するはずだと思う。

 

人間は、それぞれの幸せを追求する道徳的義務があると思うし、自分のことを好きでいられないような環境を生きる必要は決してないはずだ。

 

人と繋がって生きていかないといけない社会に生まれてしまった以上、自分を大切に、生きるのが楽しい自分でいられる場所、モノ、人と生きられるようにしたい。