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思索雑記

思った事とか価値観、よく分からないこともなんでも書く雑記。

"速読"じゃなく"深読"が求められる時代

「読書は成功に不可欠である。」

「読書しない人は損してる」

こういう類の言葉は散々よく耳にする。

実際、ある研究では30代で年収3000万円以上の人の読書量は年収300万円の人の38倍だという研究結果が出ていたり、世界一の投資家で知られるウォーレンバフェットも、「投資を成功させたいのならとにかく手当たり次第読むことだ」と声をあげるほど、どうやら読書というものは成功には不可欠らしい。

 

日本では、1日あたり約200冊の本が出版されていて、その中でも10万部以上の売り上げを誇る「良書」はベストセラーという形で多くの人の目に触れられるようになる。

トーハンの年間ベストセラーアーカイブによれば、年間10万部以上の売り上げ数のある書籍は毎年500冊以上発行されていて、単純計算でも1年あたり日本人の約半数は良書に触れられている計算になる。

 

それでも、野村総合研究所NRI親リッチアンケート調査(2018年)によると、純資産1億円以上の富裕層の割合は日本全国民の2%以下らしく、これらの2%弱の人々を成功者とみなすならば、数十年前に比べはるかに「良書」に触れられやすいようになった現状の結果としては、"成功者"があまりに少なすぎやしないかと思った。

 

読書の成功に対する直結度合いなんてものは知ったこっちゃないが、私はここで、現状の読み手の本との向き合い方に少なからず課題があるのではないかと思った。

書籍の内容をうまく自分のものにできなくなってしまったのではないかということだ。

 

実際私自身も、数年前に読んだ本の内容をほとんどマトモに覚えていないというようなことがあるのだけど、幼い頃に読んだ本は鮮明に覚えていたりする。

「年をとるとすぐモノを覚えられなくなるから、若いうちに沢山イプットしておいた方がいい」

というようなことはよく耳にするけど、

エビングハウス忘却曲線」を提唱した、ドイツの心理学者エビングハウスが言うには、忘却速度に年齢差は関係ないらしく、若かろうが高齢だろうが、モノを忘れるスピードに大差はないらしい。

幼い頃に読んだ本というのは、持っているお金が少ない中買った本を大事に何度も読み直したということから細部まで覚えているということがあるが、大人になると、本を読み終えると満足して次の本を購入し、また読み終えると次の本を購入するといったことができるようになる。つまり、選択肢が増えてしまったことで、一つの本に神経を集中させることができなくなってしまったがために、内容が残りにくくなったのではないだろうかと思う。

 

そもそも記憶の定着は「見る回数」と「使う回数」によって決まるとされているが、本やセミナーで知識を学んだ際に、実践する人は3%もいないと言われている。

そんな中で、書籍を自分のものにするには、一つ一つの本を深く読むことが大事なんじゃないかと思う。一冊の本を丁寧にゆっくり読んだり、何度も読み直したり、書かれている内容を実際に行動に移すということができないと、結果として意味をなさない気がする。

 

芥川賞作家の平野啓一郎は自身の著書『本の読み方』で、本を猛スピードで読むことを、『極上のボルドーをイッキ飲みするような、恥ずかしい、下品なことじゃないだろうか』という風に言っていたし、日本を代表する作家、大江健三郎は小説『憂い顔の童子』で、 『すべての真面目な読書は読み直すこと (リリーディング)』だと言っていた。

書籍が簡単に手に入れられるようになってしまった今、一月あたり読む本の冊数を制限してみたり、一冊の本を再読してみたりと、自分の中で決め事を作って、本を深く自分のものにできないと、とても勿体無いような気がする。

 

最近は"速読"という言葉が生まれているように、本をできるだけ多く読むことを良しとされつつあるような気がする。本をより早く、より多く読むための書籍が発売されていたり、年間読書量○○百冊読んでいるということをSNSのプロフィールにしているような人を見かけたりもする。

しかし、本当に大切なのは、本を"多く"読むことではなくて、本を"深く"読むということではないだろうか。

新型感染症による人類の危機を迎えて

今週のお題「オンライン」

新型コロナウイルスの感染が拡大する中、

 

地域によっては政府が国民に不要不急の外出の禁止を呼びかけ、SNS上では、これまで以上に多くの著名人がライブ配信したり、友達どおしでオンライン飲み会を開いてる人たちも見かけるようになった。

 

ここ十数年でインターネットは急速に普及し、世界中の人たちと簡単につながることができるようになった。

そんなテクノロジーの発展と共にその倫理観が問われることも多くなってきているのは、若者の間で"SNS病み"という言葉が生まれていることからも、今の時代を生きていると身に染みて感じることは多い。

繋がることができなかった時代から、繋がりすぎてしまう時代へ変わってしまったのだ。

 

誰かがSNSに意見を発信すると、思わぬ方向からの誹謗中傷が起きたり、他人のSNSを見て自分の生活、人生がより貧相なものに錯覚してしまうことはインターネットの発展による典型的な弊害だ

 

ただ、今、WHOによる新型コロナウイルスのパンミデック宣言にともない、このインターネットというものの恩恵が私たちに大きく齎されているように思う。

SNSを開くと、SNS上のアカウントは一般人、有名人を問わず、これまでに見ない団結力を見せている。

 

様々な意見が縦横無尽に飛び交うインターネットという空間で、多くの者が口を揃えて、「周りの命のために外出を控えよう!」という声であったり、「みんなで乗り切ろう」という声に賛同し、周りの人に呼びかけるようになっているのだ。

 

人々が外出しなくなることによる弊害を受ける人たちは多いはずなのに、これらの言葉に反論するような人も少なく、皆が賛同する動きになってきている。

仕事もテレワークを採用する企業が増え、自宅で過ごす人たちのために多くの著名人たちがSNSなどで積極的にライブ配信をし、友達と過ごしたくなったときは、オンライン飲み会を開くなどして、積極的にこの危機を乗り切ろうと行動している。

 

これまで、利便性と共に様々な弊害を生んできたインターネットというものを、人類が新型感染症に立ち向かうための大きな武器として、最大限に利用されるといいなと思ったりする。

自己というものについて考えてみた

今の時代、色々な人や社会と関わらずに生きていくことは不可能だ。こんなにも多くの人と関わり、多様な環境の中で生きているということを自覚すると、自己というものは一つではなく、環境ごとにそれぞれ存在するのではないだろうかと思うようになった。

 

どんな人も、家族といるとき、恋人といるとき、職場にいる時は、それぞれ少なからず違った自分を生きているはずだと思う。関西だと、普段よくボケ側にいる人でも、自分以上にボケるような人といる時はツッコミ側に回るというようなことがあるようにだ。

 

コミュニケーションというのはこのように相手と自分がうまく調和する部分で行われるもので、そのコミュニケーションの産物として、その相手専用の自分というものが生まれていく。

これは職場や学校というような環境をとっても同じことが言えて、職場ではいじられキャラだけど、学校ではいじる側にいるというようなことが起こるのは全くオカシイことではなく、ただ、その集合体と自分自身の調和点の産物として、その環境特有の自分が生まれているというだけのことだ。

 

私は、「自己」は他人や場所などの外的要因を経由して出来上がるものだと考えているため、どの環境での自分が本当の自分なのかなんてことはどうでもよく、その環境での自分を好きでいられるかどうかが重要なのだと思っている。

 

事実なんてものは知ったこっちゃないが、仮にそうあるとするならば、できるだけ生きるのが楽しいと思える環境を生きられるようにしたい。

その場所にいるとき、その人と一緒にいるとき、その時々の自分自身を好きでいられる環境に生きたい。

 

最近になっても稀に中高生のいじめによる自殺事件をニュースで見かける。

自殺を選択してしまった学生は、きっと学校という環境に生まれた自分を生きるのが苦痛だったのだろうけど、特定の環境を生きる一部の自分が嫌になってしまったがために、"自分自身"を殺してしまうことは本当に悲しいことだ。

 

ある環境によって、生きることが辛くなってしまうような自分が生まれたときには、生きるのが楽しい場所や、人、モノを見つけ、逃げられるようにしたい。

今の時代、どんな人にもきっと自分を好きでいられるような環境が存在するはずだと思う。

 

人間は、それぞれの幸せを追求する道徳的義務があると思うし、自分のことを好きでいられないような環境を生きる必要は決してないはずだ。

 

人と繋がって生きていかないといけない社会に生まれてしまった以上、自分を大切に、生きるのが楽しい自分でいられる場所、モノ、人と生きられるようにしたい。

「好きなことを仕事に」?

「好きなことを仕事に」という言い回しに昔から違和感を感じる。好きなことではあっても、仕事になることでそのものの捉え方というものは大きく変わるだろうし、そもそも仕事は楽しくないものというようなニュアンスを感じる気もする。

まあ、ここまでいくと自分でもちょっと考えすぎだと思うので置いておくとして、

 

そもそも、さまざまな業界の第一線で活躍している人たちは自分たちの仕事を「好き」だけを足がかりに担っているのだろうか。

 この一年間、就活を通して、いろんな業界で活躍されている方達とお会いする機会があったのだけど、彼らはむしろ好きという感情以上に大切にしているのがあるというか、もっと大前提として仕事を通して、自分を表現しようとしているような感じがした。

 なにがしたいというよりは、それを通して、どんな自分でありたいかということを大事にすることが重要だと思った。

 

職業によってアイデンティティが完全に縛られるというようなことはないし、そういう意味では、それを通じてありたいようにあれるのであれば、職業も仕事もある意味なんでもかまわなくて、力を発揮するきっかけにすぎないような気がする。

 

働くことを通して、「これが私です」と示すことができるような、そんな仕事をしていきたいなあって思う。

興味って大事だなあと思った話

昔から本を読むことが好きなのだけど、ふとした瞬間に文字が全く頭に入らなくなるときがある。集中力が切れてしまったんだと割り切り、また読もうと思ったときに読もう、と本を閉じるのだけど、この後は何かしら他にキッカケがない限りその本を再び開くことは滅多になくなってしまう。

 

この原因について少し考えてみることにした。

 今日もバイト先に向かう電車に乗っている時に先週買った本を読んでいると、次第に文字が頭に入らなくなってしまい、集中して読み直せば理解できるのだろうけど、その気になれず読むのをやめてしまった。

これは多分その本自体に興味がなくなってしまったのだという考えに至った。

 

読んでいるうちに「知りたい」という興味がなくなるのに連れて集中力もなくなってしまったということだ。

この理論から行くと、集中力というのはそのモノに対する興味がとても重要になる。

 集中力が上がればより効率的になって、結果も出るし、もしかすると、 勉強の一番の成果はその分野への興味が広がることなのかもしれない。

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日本に帰って来て感じたこと

✴︎この記事は今からちょうど一年前、留学先のモントリオールから帰国した時に殴り書きした記事です。なぜか下書きに残っていたので、今更ながら投稿させていただきます。

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皆さんお久しぶりです。

つい1週間と少し前にモントリオールから日本に帰国しました。

 

約1年ぶりに改めて見る母国には色々と感じさせられるものがあり、文字にして残しておこうと思ったのですが、海外との文化や空気感の違いなどの目には見えない部分、またシンプルな物理的な日常のテクノロジー差など、色々と書きたいことがありすこし量が多くなってしまいそうなので何回かに分けて書き残していこうと思います。

 

ではまず第一回目、目に見えない部分について書きます。

 

まず僕が日本(羽田空港)についてはじめに思ったのは、「怖い」です。

 

当たり前ではありますが、普段見ることのなかった日本人が自分の周りに溢れかえっているのがすごく怖かったのです。

 

自分の周りに日本人が溢れているだけでなぜこの「怖い」という感情がでてきたのか疑問に思い、空港の乗り換え時間の間ずっと考えていた結果一つの結論を出すことができました。

 

それは「日本人の間の独特な空気感」によるものでした。

 

留学帰りの人や、帰国子女の人たちが日本は息苦しいと良く言うのはこの空気感からきているものだと思います。

 

少しオブラートに包んだ言い方をしましたが、つまりは日本人は他人のことにとやかく口を挟むことが多かったり、周りの目を気にせずには生きづらいような厚い文化や社会が作り上げているように思います。

 

どういうことか論理的に説明しようとしてもなかなか難しいので、SNSで世界的にトップクラスで流行り続けているInstagramを例にあげると、

日本人は海外の人たちに比べ圧倒的に自撮り写真や自分の写真を投稿しません。

 

自分の写真をあげると「痛い」、「ナルシスト」と叩かれます。

日本人だとそれなりの容姿があったりキャラクターができあがっていない限りなかなか他人の批判の目を逃れることは難しいです。

 

また、ある日本人の友達とたまたま帰り道が一緒で、一緒に歩いているときに、少しだけ汚れのついたスニーカーを眺め、「こんなスニーカー日本の大学に履いていけないわ。」と言っていたことがありました。

 

皆がきちんとした服装を身に着けるのが当たり前になっていて、だらしない格好で行くと変な目で見られるみたいです。

 

SNSで自分の写真をたくさんあげると「自分のこと好きすぎて痛い」と言われ、大学に綺麗な服装で行かないと「だらしない」と言われる。

 

こんな日常では息苦しく感じるのもよくわかります。

 

僕が住んでいたモントリオールという街ではそのようなことはほぼなかったですが、

これは人々が周りのことを気にせず生きているというより、こうあるべきというステレオタイプがなく、全員が皆のスタイルを尊重して生きるという文化があるからだというほうが正しい気がします。

 

どんな格好、スタイルで外にでようと誰にも批判される心配がない。

このような社会があるおかげで、全員が無駄なストレスなしに自分流の人生を歩めているのだと僕は思いました。

本屋で自分を見つける

昔から本屋が好きで、バイト帰りや、友達と飲みにいった後、大学の空きコマなんかに別に目当ての本があるわけでもないのに、ふと立ち寄ってしまうことがある。

 

本屋に入るといつも、特にあてもなく、気になった本棚と本棚の間から、棚に並べられた本を一通り見渡しながら、いろんなジャンルの本をただ眺め歩く。

そうしていると何回か、ふと一冊の本に目が止まって、

「なんか、読みたいなあ」ってなる瞬間がある。

 

この現象は本に限らないことだけど、街にある広告だったり、テレビ番組であったりとそういったものは、人間の注意を敢えて惹きつけようと誇張して作られているもの以外は、自分が本能的に見たいものしか見えないようになってて、本屋でも、曖昧としていた価値観が言語化されていたものや、今抱えている悩みであったりと、そういう自分自身との共通点が感じ取れるものにしか目が止まらないようになっているのだと思う。

 

本屋の面白いところはこの部分で、乱雑に並べられた数多のジャンルから自分の嗜好や興味、思想などとの共通点を無意識に感じとり、神経が反応して目が止まってしまうという部分であり、今まで触れてこなかった興味のそそるジャンルの本が見つかったり、自分がその時抱えている悩みを解決してくれそうな本に目が止まったりと、自分でも把握できていなかった自分の内側のことにとても分かりやすい形で気づかせてくれたりする。

 

「自分は今こういう部分に悩んでいて、こういうものに興味があるのかもしれないなあ」

というようなことが簡単に発見できるのだ。

 

それに、目に止まった本は面白いことが多くて、その時の自分を助けてくれたりもする。

 

 自分を見失いそうになった時は、とりあえずうまい飯食って、帰りに本屋に寄ってみるのもいいと思う。

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