自分を確立することのむずかしさ
モントリオールではとうとう雪が降り始めました。
雪の降る地域で生活をしたことのない私は、来たるカナダの冬に怯えながらこの記事を書いています。
私たち日本人は、基本的に小学校、中学校、高校、大学、それから就職という流れで社会に排出されていきます。
小学校、中学校、高校、大学では、みんなが決まった基準、「成績」というもので評価され、
中学校では、高校受験、
高校では、大学受験、
大学では就職活動
一般的にこれらを目標に勉学に励むことが多いと思います。
学校の授業では「ここテストにでるぞ〜」とか、「ここ受験で頻出だぞ〜」とか、こういったことしか先生は言っていた記憶が私にはよく残っています。
しかし、テストでいい点をとりいい成績をとることを生徒全員の目標として縛り付けるのは、生徒それぞれののもっと大事な部分を育てる機会を奪っている気がします。
なにか人間の人間的な部分、クリエイティブな部分や個性のようなもの?
ただ受験に成功すればいい、テストでいい点をとっていい成績を残せればいいというような空気が学校でのあたりまえとして生まれていて、生徒はそれを目標としてめざすと同時に、それぞれが本当のしたいことなどを考える必要性を抹消している気がするのです。
これらのあたりまえを無視し、自分の好きなことだけを追い続けようとすると、学校の勉強をしなさい!と先生や親から言われ、、いい実績を残した人が褒められ、讃えられるような環境自体が人の個性を育くむ上でとても障害になっている気がするのです。
そういう観点からみてみると、中学、高校というのはすごく楽に感じられないでしょうか。
というのも、自分が生きていく道、歩んでいきたい道を考えなくとも、学校の勉強をして、一般的に自動的に決められた「受験」という道を目指しさえすればいいからです。
もう少し自分と向き合う機会を中学や高校で設けられるいいのになあと思います。
もちろん全員がそうではありませんが大学生が勉強をあまりしないといわれているのも、大学のシステムや日本の学歴社会というものだけでなく、この名残りがあるからだと私は思います。
大学を卒業すると、これまでのように受験というようなみんなが決まってめざすような道はなく、本当に自分がどのようにいきていきたいかをしっかりと考えないといけません。
しかし、中学、高校時代にそのような自分と向き合う習慣をつけられなかった、つける必要がなかったがゆえに、自分と向き合うことの必要性をみつけることができなくて何も考えられず、大学ではこれまでどうり学歴を残すということのためだけに勉強をし、あとは飲み会などで遊び呆けてしまうのだと思うのです。
しかし、人は十人十色で、自分がしたいことと周りの人がしたいことというのはもちろん違うものです。
そしてそれを見つけることができるのは自分しかいません。
すでに存在する自分を見つけるのは、自分にしか答えがないもので本当に難しいことだと思いますが、自分と向き合うことをせず、受動的に生きていくと就職の次に見えるものは定年しかありません。
こんなことを書きながら最近はブラジルの伝統ダンス、“forró”にはまりまくっている20歳でした。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。